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みなさんおはようございます。
未来のハイブリッドカーは松岡修造の情熱とアニマル浜口の気合いで走るのだと思います、さとるです。 (※ 以下、2008年09月28日のmixi日記より転載。) 最近つくづく思うんですよね、エコとエゴは本当に紙一重だよなあって。 日頃からマイバッグを持ち歩くことがある種のステイタスになりつつある昨今ですが、 レジ袋の受け取りを拒否した程度でエコ人間を気取るなどとは厚かましいにも程がある。 それはつまり、成城のカフェでランチを食べた程度でセレブを気取っちゃうようなものです。 日頃から環境に配慮し、ゴミを減らす努力や工夫をごくあたりまえに実践できているか。 それすらろくに出来ていない人間がエコだの温暖化だのを語るのは本末転倒この上ない。 徳光のギャラは減らさないくせに視聴者には募金をよこせだなんて馬鹿げているでしょ? というブラックな冗談はさておき、エコという言葉の流布には正直うんざりなんです僕。 テレビ局をはじめとした各企業による“エコビジネス”は目に余るほど横行していますし、 その大半がグリーンウォッシング(環境にやさしい企業を装う行為)としか思えませんし。 とまあ、あまり吠えると日記の趣旨を逸脱するのでお口チャックウィルソンしますけど、 安易にエコを謳う風潮に消費者が興ざめしていることを企業は認識すべきだと思うし、 エコらない人間は非国民!というご都合主義のプロパガンダなど垂れ流すなと言いたい。 要するに、エコとエゴを履き違えるなということ。(うまいこと言ったつもりです) 閑話休題、僕たち現代人に足りないものを挙げだしたらそれは実にキリがない訳ですが、 とりわけひとつの物を長いあいだ大事に使うという精神が絶望的に足りないと思うんです。 先人たちの愛した“もったいない精神”はどこへ行ったの?向かいのホーム?路地裏の窓? とはいえ、巷に物が溢れている時代にもったいない精神を意識するのはなかなか難しい。 例えば、僕が中学生の頃は一冊のエロ本を数人で輪姦(回し読み)するのが常識でした。 いささか生々しい表現をするなら、同じ穴の具を食べた“穴兄弟”がたくさんいた訳です。 しかしながら、今の時代は“ネットを歩けばエロ動画にあたる”というまさに飽食の時代。 夜な夜な「ギルガメッシュないと」を見ては股間に熱いパトスを感じたりすることはないし、 近所の河原の土手で泥だらけになりながらもひたすらエロ本さがしに奔走することもない。 そんなクリックひとつでクリックリのハイジを拝めてしまう時代を生きる現代人にとって、 もったいない精神を奮起させることがいかに難しいことかなんて想像するに及びません。 ふるさとがトトロと同じく空想上の生き物であると信じていた時代は終わりを告げたのです。 という訳で、ナウでヤングな現代人がもったいない精神を意識することは不可能に近い。 物を長いあいだ大事に使っている人間には「古臭い」だの「昭和臭い」だのと暴言を吐き、 ナウでヤングな物を所持していない人間は片っ端からウンコを投げて潰しにかかるのです。 というのも、先日、20歳を迎えたばかりの人と連絡先を交換する機会があったのですが、 その際、僕の年季の入った旧式ケータイを見た若者の顔が明らかに侮蔑的だったんです。 何でしょう、あの「そろそろ買い換えた方がいいんじゃないッスか?(笑)」的な上から目線。 そもそも、ダメージジーンズがオシャレのマストアイテムとして重宝されているというのに、 僕のダメージケータイがオシャレアイテムに認定されない根拠はどこにあるのでしょうか? まあ、所詮は20歳の田舎者、ダメージケータイの魅力や奥深さが理解できるはずもない。 もしも僕が高円寺に住んでいたら、間違いなくファッションリーダーになれると思います。 ダメージジーンズのポケットからチラりと顔を覗かせるダメージケータイの小粋さたるや、 古着の街として知られる高円寺に生きる若者のハートをくすぐらずにはいられないはずだ! という訳で、ダメージケータイのオシャレ度を理解できない田舎者の美的センスは無視。 そんなことより、とっとと連絡先の交換を終わらせて家に帰ってジョジョの続きが読みたい。 ところが、最新式ケータイと旧式ケータイの壁はベルリンの壁よりも厚いことに気づきます。 というのも、僕のケータイには、赤外線通信というナウでヤングな機能が付いていません。 それはつまり、相手のメアドを一文字ずつ手打ちしなければならないことを意味しており、 ジョジョの続きを読みたくても読めないというヘビの生殺し状態を味わわねばならない訳で。 それよりも何よりも、目の前にいる若者が明らかに僕に対する殺意で満ちていたんです。 ボタンひとつで交換できる連絡先が、僕のせいでめんどくさいことになった訳ですからね。 何でしょう、あの「赤外線通信が付いてないとかマジふざけてる?(怒)」的な上から目線。 そんなこんなで、火事場の馬鹿力とでもいわんばかりの速さでメアドを打ち終えた僕は、 若者のシニカルな作り笑顔を背に受け、その場から逃げるようにそそくさと踵を返しました。 手打ちという古き良き時代の面影をやんわりと否定された悲しさに打ちひしがれながら…。 けれども、少しばかり反論しますと、手打ちを否定することは非常に危険な行為です。 技術革新の進んだ現代においては何かと否定の槍玉に挙げらる僕のケータイですが、 僕のケータイに秘められた驚愕の真実を知れば、もはや否定なんてできないと思います。 という訳で、アリストテレスの三段論法を用いて論理的に考えると さとるのケータイは手打ちである。 ↓ 手打ちは讃岐うどんの基本である。 ↓ ゆえに、さとるのケータイは讃岐うどんの基本である。 ↓ 転じて、さとるのケータイがなければ讃岐うどんの基本は成り立たない。 このように、僕のケータイが讃岐うどんを支えているという事実が論理的に導かれました。 つまり、僕の手打ち作業にケチをつけることは讃岐うどん職人にケチをつけることであり、 僕のケータイを否定することは讃岐うどんを愛する香川県民を否定することを意味します。 新しいものが最大の美徳であるとする現代的な価値観を持つことは各人の自由ですが、 だからといって軽はずみな気持ちで僕のケータイ、あるいは手打ちを否定しようものなら、 怒りに震えた香川県民からは、火炎瓶ならぬ“火炎讃岐うどん”を投げられるでしょうね。 香川県民の讃岐うどんを否定することはジャイアンの歌唱力を否定するようなものです。 歌唱力がジャイアンにとっての誇りであるように、讃岐うどんは香川県民にとっての誇り。 同様に、ダメージケータイは僕の誇りであり、否定するヤツは全員ブン殴ってやるからな! という訳で、ナウでヤングな現代ではとかく軽視されがちな“もったいない精神”ですが、 ひとつの物を長いあいだ大事に使うということは、自分が誇れる物を持つということです。 地球を誇れないような人間どもにエコを語る資格があるのか、僕は甚だ疑問でなりません。 あなたは地球を誇れますか?(僕は誇れないからエコは語らない主義です) |
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